数々の思い出と共に(長文)
安藤さんが、ティンパニ協奏曲をされるのは暫く前に知っていたものの、早くから出ていた20日の東京文化の公演は、名フィルのリハと重なりアウト。「リハにでも潜り込ませてもらえないかな(でもこんなご時世無理よね)」と思っていたら、ひょんなことで、お電話した際「日曜に大阪公演あるよー(名古屋公演ではやらないけど)」と教えてもらって、それならば!と2重マスクで向かいました。
フェスティバルホールにお仕事で連れてきてもらったのも都響(リニューアル前の最後?の公演、アイーダのバンダ。打ち上げで「551の!ある時―、ない時―」をやったのが懐かしい。。)会場に着くと、入り口でN響のKさんを発見。飛行機でいらっしゃったそうで・・別々で席は取ったものの、考えることは皆大体同じ、お互い3階席の最前列へ(隣の席も打楽器奏者でした(笑))
オケ中セッティングだとは聞いていたものの、綺麗に縦にティンパニが並ぶ(同時には出てきません)という、なかなか珍しい風景。
昨年、僕も演奏予定だった(コロナの野郎)バルトークを都響がサントリーホールで演奏された際は、他の曲で、一昨年グラスをN響植松さん&久保さんが演奏された際は、その後ろで演奏していたし(※)で、こういう協奏曲を客席で聴くのは菅原先生がテーリヘンを演奏された際以来かも。作曲者のAho(ちゃいまんねん、パーでんねん。古)といえば、数年前にブラビンズで、トロンボーン協奏曲を取り上げましたが、協奏曲の内容より、ポストリュードとしてソリストのライエンが、ディレイをかけて一人で重奏していた思い出しか残っていない(Kさんは交響曲9番を演奏した際、ティンパニが超大変だった思い出があるとのこと)
直前まで楽器調整されてるなあと思っていたら、そのままオケのメンバーがぞろぞろ入ってきて(都響はアメリカンスタイルでメンバーは揃って入場せず)チューニングが始まってしまい、暫くしたら指揮者入場、既に舞台にいた安藤さんが、ひょっこりお辞儀する、というフレンドリー?スタイルで曲がスタート。
最近、ある雑誌にコンサートレポを頼まれた為、内容はカッツアイ(特に変わったこと書いてませんが・・・)勉強になりました。打楽器後方陣にはレギュラーメンバ―+松下さん+その時には判らなかったけど、なんと広島から小川さんがいらしていたそうで・・「ジャンベの若者は、誰?」と思っていたら、ヒロさん、若々しい。
指揮の大野さんは、ザグレブ・フィルとの打楽器協奏曲CDもあったので(今では廃盤。しかも4つのインベンションのピアノを弾かれている、凄)、打楽器お好きなんだろうなあ、という見応え&聴き応えでした。終わったら勿論拍手喝采&休憩中のロビーでは密にならない程度に、打楽器奏者が集まって近況報告するという、マスク以外はこれまでと変わらぬ風景。
後半の巨人。流石のマーラーオケとして名高い都響だけあって、皆さん凄かったですが、個人的なハイライトは1楽章での小林さんのシンバル。ビックリするくらい輝かしくて(しかし本人に気負いの表情もなく)呆気にとられたなあ。4楽章で出てくる2nd timpaniの的確なG(←奏者はさっきまでソリストだった人)にも参りました。
楽屋口はいい感じに風がひゅーひゅー吹いているところで、出待ちしてても換気の心配がなく(寒かったくらい 笑)最後に出てこられた安藤さん家族に一言だけご挨拶して、解散。ちゃんと551に寄って帰宅。
そして一夜明けたら、こちらの定期リハ。前半はモーツァルトのVn協で、打楽器無しでしたが(※の演奏会の時は、メインがこの交響曲だったんですよね、そしてその時もソリストだった植松さんが、ショスタコーヴィチのティンパニも演奏したという・・・諸先輩方の気力体力見習わねば)後半は、かなり大変。
前回も少し書きましたが、この曲の初体験は色んな思い出深いPMF2004(blogのアルバム参照)ですが、その数か月後に新日本フィルat都民フェスで初めてお客として体験し(ミッキー=井上指揮)その後もサントリーで1回目のインバル都響(その数年後の2回目は聴けず)も聴いて、打ち上げで安藤さんと「競楽コンクール」の話をした記憶あり。。その後暫くして、N響サントリー(デュトワ12月)でラストの鐘だけ要員で2回目演奏、そして※の演奏会でもミッキー指揮で3回目、2度目の鐘だけ要員(^^; なので、今回は通算4回目で2度目のティンパニパートでした(ややこしい)
名フィルも定期やミッキーの日比谷演奏会を含め取り上げるのは4回目だそうだけど、全部の演奏に出ていた団員は、楽員の1割以下だったのでは。。という程度に入れ替わっている年月。前回が2007年(クライツベルク指揮、その前週に読響のマラ5公演は菅原先生の引退公演で聴いてました)だそうで。今回の客演指揮者の方は、21世紀初頭に常任ポストに就いていたとのことですが、当時の団員だった人が奏者の4割以下だった模様。時代は移るのです。そんな事言ってたらあっという間に50代が来そうですが・・・
休憩中に楽員室で「前にゲルギエフでこの曲演奏して・・」と言うと「えーこんな大変な曲なのに指揮分かり辛くて崩壊しそう・・」と言われたけど、とんでもない。その時は前のプログラムで振っていた某台湾人の指揮者の方がよっぽどオケがグチャグチャで、ゲルギエフが振った途端にオケは難曲でもピッタリ。傍からみてるバトンテクニックだけではないんだな(奏者のモチベーションも大きいけど( ´∀` ))、と体感した瞬間でした。と同時にこの曲での演奏が、僕の人生も進めてくれたので。
高みにいる指揮者に、触れられる機会・・・最近まで都内で某イタリア人の指揮で演奏していた人たちを羨望しつつも、与えられたチャンスをこなしていたり、善意を積み重ねていれば(先日、分厚い革製の財布を拾い、遠かった警察まで届けたら、事務作業を終える20分後に持ち主が探しに来たこともあったなあ)いつかまた来ることを信じて。。
昨年から時間があったので、ショスタコーヴィチ関連の本も読んだり、今回はたまたま「映像の世紀」がやっていたので録画して、1905年に関する情報も目にしたりしましたが(真贋いろいろある)、まあなにより曲が凄惨さを語っています。どのパートも大変ですが、なかでも1stトランペットと小太鼓は特に。2人に脱帽でしたが、ユズル君は、デュトワの時に一緒に乗ってて1アシ(というかかなり大半)を吹いていたとの事。ジョエルは演奏自体は初だったらしいけど、2楽章の一斉射撃の後のppロールが絶妙でした。大きいだけはちょっと練習すれば誰でも出来るから、あそこのシビアが出来るかどうかが分かれ目。後ろと隣で演奏していて、本当―――に誇らしかった。他のパートの皆さんも初日から傷なしの演奏(プロだから当たり前と言われればそれまでですが、、この曲は大変な箇所が本当一杯あって、ベルリンフィルでも普通にミスしたままの動画あがってます。それくらいトラップが多数ある曲)、稀にみる集中力の高さで、お客さんにも伝染したのか、拍手が起こるまでの静寂が凄かった。こんな状況下でも、いらしてくださるお客様&演奏会が開けた現状に感謝。
次回の出番は、またコロナで一つ飛びましたけど。慣れずにやるせない気持ちは持っていたい!
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